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domingo, 20 de octubre de 2019

ニカイア信条


 ニカイア信条(ニカイアしんじょう)とは、キリスト教の信条の一つ。ニカイア信経(ニカイアしんきょう)または原ニケア信条(げん二ケアしんじょう)とも。アリウス派を排斥した第1ニカイア公会議(325年)において採択された。したがってニカイア信条は、公式の会議によって採択された最初の信条でもある。なお原ニケア信条とは、ニカイア・コンスタンティノポリス信条にニケア信条の名を用いる教派での呼称である。
ニカイア信条の中で父と子は「同質」(ギリシャ語:ホモウーシオス)であるという表現が使われたが、この語の使用は聖書にない言葉がはじめて教義の中にとりいれられたという意味で画期的な出来事であった。参加者の間ではこの「同質」と「相似」(ギリシャ語:ホモイウーシオス)のどちらを使うかということをめぐって激しい議論が戦わされた。結果として「同質」という言葉を好まない司教たちが多かったことがアリウス派論争が長引く要因となってしまった。
この後、第1コンスタンティノポリス公会議(381年)において、ニカイア信条は拡充され、聖霊・教会・死者たちの復活についての教義の詳細が文章化された。これがニカイア・コンスタンティノポリス信条である。 

祈り ・ニケア・コンスタンチノープル信条
私は信じます。唯一の神、
全能の父、
天と地、
見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。
わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。
主は神のひとり子、
すべてに先立って父より生まれ、
神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
造られることなく生まれ、父と一体。
すべては主によって造られました。
主は、わたしたち人類のため、
わたしたちの救いのために天からくだり、
聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、
人となられました。
ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、
苦しみを受け、葬られ、
聖書にあるとおり三日目に復活し、
天に昇り、父の右の座に着いておられます。
主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。
その国は終わることがありません。
わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は、父から出て、
父と子とともに礼拝され、栄光を受け、
また預言者をとおして語られました。
わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
罪の許しをもたらす唯一の洗礼を認め、
死者の復活と
来世のいのちを待ち望みます。アーメン。


martes, 15 de octubre de 2019

イコン

 

イコン


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イコン(ギリシア語: εικών, ロシア語: Икона, 英語: Icon, ドイツ語: Ikon)とは、イエス・キリスト(イイスス・ハリストス)、聖人、天使、聖書における重要出来事やたとえ話、教会史上の出来事を画いた画像(多くは平面)である。"εικών"をイコンと読むのは中世から現代までのギリシャ語による(ειは中世・現代ギリシャ語では「イ」と読む)。古典ギリシャ語再建音ではエイコーン。正教会では聖像とも呼ぶ。 

概説


「イコン」と言えば正教会で用いられるものを指すことが多く、場合によってはイコンは正教会のものとして限定的に説明されることもある。イコンは、正教会以外のキリスト教の教派でも用いられないわけではなく、カトリック教会においても用いられるが、カトリック教会ではこれを聖画像とも呼ぶ。
ギリシア語の「イコン」(ギリシア語: εικώνの中世 - 現代ギリシア語読み、古典ギリシア語再建音ではエイコーン)は、似姿、印象、かたどり、イメージという意味がある。思いや考えを託す器としてのイメージ(イコン)は、託されたものを表現する働きも持つため、器(イメージ、すなわちイコン)の破壊は器に盛られているものの破壊に通じると考えられる。ここでいう「器」は、具体的には伝統的なイコンの技法、既定された色や構図であると整理される。  

イコン画家


イコンを書く者は、聖伝の中に生き、正教の共同体の一員であり、いつも機密的生活の内にいなければならない。真のイコン画家にとりイコンの制作は習練と祈りの道、修道の道そのものであり、この世と肉体の情念と欲からの解放がなされ、人の意志が神の意志に従えられていなければならない。真のイコン画家は自分のため、もしくは自分の光栄のためにではなく、神の光栄のために働く。
従って原則としてイコン画家はイコンに自分の名を記さない。例外的に記名する場合にも「~によって」「~の制作」「~の手によって」「~の手」といった言葉を付ける。これはイコンの制作課程の中に神聖なものが入り、神の恩寵がイコン画家の心を照らして、彼の手を導くと感じられることによる。

初期(7世紀まで)
全てのイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の顔が画かれたイコンの原型となっているのは、『手にて描かれざるイコン』とも呼ばれる『自印聖像』である。これは、イイススが顔を洗い、自らの顔を布に押し当てると、イイススの顔が布に写るという奇蹟が起きたことによるものであると、教会の伝承は伝えている(ただし『自印聖像』のオリジナルは、1204年、第四回十字軍がコンスタンティノープルを蹂躙した際に失われた)。
伝承によれば、聖使徒ルカによって生神女マリヤの存命中に彼女が画かれたイコンが最初のイコンだとされている。『ウラジーミルの生神女』は、聖使徒ルカによるものとして正教会では伝えられている。 
ダマスコのイオアンが金口イオアンの生涯について書いた著作の中では、金口イオアンが聖使徒パウロのイコンを自分の前に置いてパウロ書簡を読んでいたと記されている。ニッサの聖グリゴリイ(ニュッサのグレゴリオス)はイサクの燔祭のイコンを見て、深く感動したことを語っている。 
4世紀の著作家エウセビオスは、ハリストス(キリスト)に癒しを受けた血友病の女(マタイによる福音書 9:20 - 23)の家に建てられたハリストスの立像のことを書き残している。また彼は、生前に書かれたハリストス、ペトロパウロの肖像画が同時代に保存されていたことを記録している。  
他方、初期にはイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)と象徴的に結び付けられた魚・子羊・牧者・鳩・葡萄の枝などが広く用いられたが、4世紀にキリスト教が公認されて以降、人の姿が画かれたイコンが広まっていった。6世紀以降は、ヘレニズムやオリエント文化(特にシリア)の教会の信仰の影響のもとに、イコンの数や各種表現が増えて、整えられて成熟していった。
イコンは(いつごろからあったのか正確な年代は不明であるが)初期から存在していた一方で、イコンを否定する議論も初期から存在していた。
最初から議論になったのはイコンが偶像崇拝に当たるのではないかという疑いである。キリスト教では偶像崇拝を禁じている。その根拠となるのは旧約聖書に記された十戒の第二戒(出エジプト記 20:4 - 6、申命記 5:8 - 10)である。 

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lunes, 14 de octubre de 2019

Покаянный псалом 50 (Psalm 50/51)



Покаянный псалом - Psalm 50/51 

текст
Помилуй мя, Боже, по велицей милости Твоей, и по множеству щедрот Твоих очисти беззаконие мое. Наипаче омый мя от беззакония моего, и от греха моего очисти мя. Яко беззаконие мое аз знаю, и грех мой предо мною есть выну. Тебе Единому согреших и лукавое пред Тобою сотворих, яко да оправдишися во словесех Твоих, и победиши внегда судити Ти. Се бо в беззакониях зачат есмь, и во гресех роди мя мати моя. Се бо истину возлюбил еси, безвестная и тайная премудрости Твоея явил ми еси. Окропиши мя иссопом, и очищуся, омыеши мя, и паче снега убелюся. Слуху моему даси радость и веселие, возрадуются кости смиренныя. Отврати лице Твое от грех моих и вся беззакония моя очисти. Сердце чисто созижди во мне, Боже, и дух прав обнови во утробе моей. Не отвержи мене от лица Твоего, и Духа Твоего Святаго не отыми от мене. Воздаждь ми радость спасения Твоего, и Духом владычним утверди мя. Научу беззаконыя путем Твоим, и нечестивии к Тебе обратятся. Избави мя от кровей, Боже, Боже спасения моего, возрадуется язык мой правде Твоей. Господи, устне мои отверзеши, и уста моя возвестят хвалу Твою. Яко аще бы восхотел еси жертвы, дал бых убо: всесожжения не благоволиши. Жертва Богу дух сокрушен: сердце сокрушенно и смиренно Бог не уничижит. Ублажи, Господи, благоволением Твоим Сиона, и да созиждутся стены Иерусалимския. Тогда благоволиши жертву правды, возношение и всесожегаемая: тогда возложат на олтарь Твой тельцы.

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Исполняет хор Московского Сретенского монастыря -архимандрит Матфей Мормыль


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Las Indulgencias vs La Fe Seis monedas de plata era el precio que deberías pagar para hacerte creedor de un certificado de indulgencia. Sin ...